気学というものを看板に掲げて、もう何年になるだろうか。人様の生年月日から、干支や九つの星の巡りを読み、運気だの相性だのを語る仕事である。当節はやりの「スピリチュアル」と一括りにされるのは、いささか心外だが。ときには一対一の身の上相談も受ける。この日訪ねてきた男も、私の講座に長く通ってくれている一人であった。
これは、ある受講生の人生相談を通して、易がどのように人生の転機を映し出すのかを考えた記録である。
ある受講生のほろ苦い告白
その人は、私の気学講座に、ずいぶんと肩の凝った様子でやってきた。
七十手前だとは思うが、姿勢はいいのに、どこか体の芯に重い荷物でも詰め込んでいるような歩き方をする人だった。講座が終わったあと、缶コーヒーを二本買ってきて、片方を黙って私に差し出す。そういう、昭和の男の作法をまだ律儀に守っている人だった。
「先生、聞いてもらえますか。恥ずかしくもほろ苦い話なんですがね」
恥ずかしくもほろ苦い話、というのは大抵、聞く側にとっては上等の味わい深い話である。私は黙って缶コーヒーのプルタブを起こした。
若い時分、その人はキャバレーを経営していたそうだ。羽振りがいい、という言葉がまだ死語になっていなかった時代の話である。その土地のみかじめを仕切るその筋の者たちや、警察官の査察などの表裏の交渉にも何とか処理しながら、自分のうっぷん晴らしで夜な夜な街を練り歩いていたというから、まあ、絵に描いたような御仁だったのだろう。
その頃、店に出入りしていた一回り以上も年下の女性と、いつの間にか懇ろ(ねんごろ)になった。懇ろ、というのも今どき使わない言葉だが、当時はそういう関係の呼び方がちゃんとあったのである。二人は同棲を始めた。
ところが景気というのは羽振りのいい男を放っておかない。近くに同業の大型チェーンの出店があったことから、この店から人足が遠のいてやがて下火になり、閉めることになった。
ここからが、いささか格好のつかない話になる。
店を失った男は、次の仕事を探すでもなく、家でごろごろしていた。彼女の方は、そんな男を責めるでもなく、黙って働きに出た。男を養うために、である。
私はこの箇所を聞いたとき、思わず唸ってしまった。世の殿方には耳の痛い話だろうが、こういう女性というのは、探してもそうそう見つかるものではない。
ある日、彼は家の箪笥を、何の気なしに開けた。
引き出しの奥の奥、着物の下あたりに、紙包みが押し込んである。開けてみると、札束であった。数えてみれば、五百万円。
彼女が、こつこつと貯めていた金である。
なぜこれほどの金を、彼女が黙って貯め込んでいたのか。その理由を、この人はついぞ考えなかった。考える前に、もう別のことを思いついてしまっていたからである。
「よし、これを倍にしてやろう」
なぜ競輪だったのか、私にはわからない。株でも競馬でもよかったはずだが、その日はどうしても競輪場の空気が呼んでいるように感じたのだそうだ。人間、駄目になるときというのは、存外こういう些細な選択でできている。
結果は、書くまでもない。すってしまった。全部である。
家に帰る足が、鉛のように重かったという。まっすぐ帰る勇気もなく、一軒の縄のれんに寄って、酒を胃に流し込んでから、夜更けに戸を開けた。
部屋は、静まり返っていた。
彼女の荷物はなかった。かわりに、卓袱台の上に、一枚の便箋が置かれていた。
そこには、彼女の几帳面な字で、こう記されていた。
「あんたがまたお店を持つときの為にと思って貯めたお金です。さよなら。」
たったこれだけの文章に、男の五十年分の見栄と甘えが、音を立てて崩れ落ちたそうである。
去る者が残した意味
彼女は、あの金を彼のために貯めていたのだ。それを知った瞬間、男が何を感じたか、私はあえて聞かなかった。聞かなくても、わかるからである。
数日間、さめざめと泣いた、と本人は言った。七十手前の男が、缶コーヒー片手にそう告白する姿を、私は正面から見ることができなかった。
「あんなイイ女には、もう一生出会えませんね そうでしょ、先生」
彼はそう言って、少し笑った。笑いながら泣くというのを、私はこのとき初めて見た。
さて――彼女は、本当に戻ってこなかったのだろうか。
置手紙を残して消えた女の心の内に、実はもう一つ、別の思惑があったのだとしたら。
そしてこの人は、この後いったいどこへ向かい、何を見つけることになったのか。
実はこの一部始終、易の卦に照らしてみると、恐ろしいほど正確に「予告」されていたことが、後になってわかるのである。人はなぜ、自分に起きることを、事前に知らされていながら気づかずにいるのだろう。
もっとも、これは何も彼一人の間抜けさに限った話ではない。易さえ多少なりとも会得すれば、誰にでもできることなのである。試しに、その種明かしを少しお見せしよう。
――ただし、これから語るのは、あの箪笥の中身がどうなったかという話だけではない。あなたの家の、あなたの心の、どこかの引き出しの話でもある。続きは、少々値の張る話になるが、それだけの値打ちはあるとお約束する。
あの日、易は何を告げていたか
彼の話を聞き終えたとき、私の頭には、ある卦がひとりでに浮かんでいた。
四十三番目の卦、「沢天夬(たくてんかい)」である。
易というのは、六本の線――爻(こう)の積み重ねで、物事の姿を映し出す。この卦を下から見ていくと、下の三爻は「天」、しっかりと満ちた陽の線が三つ並ぶ。これは箪笥の中に、微動だにせず眠っていた五百万円そのものだ。誰にも動かされることのない、静かな信頼の形である。
その上に乗るのが「沢」。若く、みずみずしい陰の性質を持つ女性を表す卦だ。
天の上に沢が乗る。これは、堤の中に水がなみなみと満ち、今にも決壊せんとしている形である。「夬」の字はそのまま「決」に通じ、決断・決壊・決別を意味する。何かがこれ以上溜め込めず、外へあふれ出る寸前の状態――それがこの卦の正体だ。
面白いのは、この卦には季節の暗示もあるということだ。旧暦でいえば三月頃、まさに堤が緩みだす季節に呼応する。彼にこの話を聞いたのも、奇しくも三月であった。
彼は、天の上に沢が乗っていることに気づかなかった。信頼という名の水が、もう限界まで満ちていたことに、まるで気づかなかったのである。競輪場に向かったあの日、彼が動かしたのは金ではない。堤そのものだったのだ。
易は、いつも先に答えを置いている。読めるかどうかは、こちらの心の澄み方次第なのである。
男が高野山へ向かった理由
さて、堤が切れたあとの話である。
数日泣き続けたあと、彼はふと、妙なことを思ったという。
「このまま同じ自分でいたら、また同じことをする」
これは、なかなか出てこない言葉である。たいていの人間は、痛い目に遭っても「運が悪かった」で済ませる。彼はそうしなかった。自分の中の、あの「よし、倍にしてやろう」という短絡さそのものを、作り直そうとしたのだ。
そうして辿り着いたのが、高野山だった。
一般の人間でも学べる真言密教の修行の場である。特別な信心があったわけではない、と本人は笑って言う。ただ、自分の心の奥にある「衝動という名の穴」を、埋めてくれる何かが欲しかったのだそうだ。
何年もかかったという。写経をし、勤行をし、朝は暗いうちから起き、身体を痛めつけるような修行もあったらしい。彼はその間、一度も彼女を探さなかった。探す資格がない、と自分で決めていたからである。
私が思うに、これは易でいうところの「艮(ごん)」の時である。山のようにじっと止まり、動かず、内側を耕す時期。しかし、やがて人は山を下り、山を越えるために昇って来た道とは別の道を探り下界に向かう。
僧侶の資格が見えてきた、まさにその頃、彼は私の気学講座に流れ着いた。堤の外にあふれた水は、長い時をかけて、山の土に染み込んでいったのである。
「天風姤」が教える、去る者の意味
彼女は、なぜ黙って出ていったのか。
私はここで、もう一つの卦を彼に見せた。沢天夬が進んだ先にある、四十四番目の卦「天風姤(てんぷうこう)」である。
下に「風」、上に「天」。一番下にだけ陰の爻が一本現れ、あとはすべて陽で埋め尽くされている。これは、たった一人の女性が、多くの男たちの中にすっと入り込む形――つまり出会いの卦として知られる。
しかし裏を返せば、これは「たった一つの綻びから、すべてが変わっていく」形でもある。彼女という一本の陰の線が、静かに、しかし確実に、彼の人生の構造そのものを変えてしまったのだ。
去っていく者は、たいてい何も語らない。語らないことこそが、最も雄弁なメッセージだからである。
彼女の置手紙は、恨み言でも呪いの言葉でもなかった。ただ、事実だけを記した一文。それが、どんな長い説教より深く彼に刺さったのは、その静けさゆえだろう。
あなたの周りにも今、静かに「風」が吹き始めてはいないだろうか。言葉数が減った誰か、目を合わせなくなった誰か。もしそんな心当たりがあるなら、それはあなたの何かを変えようとしている風かもしれない。
去る者を引き止める前に、なぜ去るのかを、まず静かに読んでみることだ。それが、易という学問の、いちばん実用的な使い道だと私は思っている。
僧侶になった男が、いま遺すもの
彼は今、地方の小さな寺を任され、そこの住職として日々を過ごしている。
大伽藍でもなければ、参拝客で賑わう寺でもない。檀家の顔をひとつひとつ覚え、法事のたびに古い着物に着替え、地味な毎日を送っているという。
「先生、正直に言うとね」
彼はそう言って、缶コーヒーの底に残った一滴を、名残惜しそうに飲み干した。
「あの時、彼女を失わなかったら、私はきっと今も、あの箪笥の前で威張っていたと思います」
失って初めて分かる価値、というのは使い古された言葉だが、彼のような形でそれを語られると、こちらの背筋も伸びる。
私はこの話を聞くたびに、易というものの正体を思う。あれは占いというより、鏡なのだ。自分では見えない自分の姿を、六本の線が黙って映し出してくれる。彼はその鏡を、五百万円という高い授業料を払って手に入れたことになる。
さて――ここからは、種明かしの続きである。
彼のような「決壊」は、なにも競輪や色恋に限った話ではない。仕事でも、家庭でも、健康でも、人は知らぬ間に堤を高くし続け、ある日それが音を立てて崩れる。
では、その堤が崩れる前に、気づく方法はあるのか。
私は長年この学問と付き合ってきて、次の三つの問いを、自分自身にも、講座の生徒にも投げかけている。難しい生年月日の計算などいらない。今このページの上で、静かに自分に問うだけでいい。
一、溜め込んでいる「言えないもの」はないか
金でも、我慢でも、秘密でもいい。誰にも言わずに抱え込んでいるものが、心の箪笥の奥にしまわれていないか。彼にとってのそれは五百万円だったが、あなたにとっては別の形をしているはずだ。「沢天夬」は、溜め込んだものが限界まで来た時に現れる卦である。溜め込んでいる自覚があるなら、それはもう、堤が半分以上埋まっている合図だと思っていい。
二、身近な人との間に「小さな綻び」が出ていないか
言葉数が減った。目を合わせなくなった。些細な連絡が途絶えがちになった――そういう変化は、たいてい大きな決別の何年も前から静かに始まっている。「天風姤」は、たった一つの綻びから全体が変わっていく形を示す卦である。綻びは、繕うなら早いに越したことはない。今日、思い当たる相手はいないだろうか。
三、「よし、これで一発挽回してやろう」と思っていることはないか
彼が競輪場に向かったときの心理そのものである。追い詰められた人間ほど、この短絡的な発想に飛びつきやすい。もし今、心のどこかに似た衝動があるなら、それこそが最も注意すべき兆候である。易は「決断」を尊ぶが、それは「一発逆転」とは似て非なるものだ。
この三つに、一つでも心当たりがあるなら、あなたは今、彼があの日いた場所に、静かに近づいているのかもしれない。
もしあなたの手元にも、まだ開けていない「箪笥」があるなら。
それは通帳かもしれないし、誰かの積年の想いかもしれない。
まとめ
私の気学塾では、こうした一人ひとりの「箪笥の中身」を、生年月日という手がかりから一緒に読み解いています。彼のように、堤が切れてから気づくのではなく、切れる前に、静かに気づいておく。そのための学びを、私はこの気学塾でお伝えしています。








